2018年2月16日金曜日

常陸國總社宮節分祭 2018 Setsubun festival throwing beans to kill evil

總社宮節分祭 2018  写真とVIDEO

總社宮節分祭 2018
總社宮節分祭 2018
總社宮節分祭 2018
 随神門

奉納神楽 豊栄の舞  
總社宮節分祭 2018 
 總社宮節分祭 2018
 總社宮節分祭 2018

奉納 獅子舞
 總社宮節分祭 2018
奉納獅子舞
總社宮節分祭 2018 
 總社宮節分祭 2018
總社宮節分祭 2018

2017年10月5日木曜日

茨城県立歴史館特別展2017-10-07~11-23まで「志士のかたち」

志士のかたち Ibaraki's people who did our best to Meiji Restoration.

prefectural History Museum at Mito

平成29年10月7日(土)~平成29年11月23日(木・祝)
桜田門、天狗党、そして新選組

展示構成
1章  文と武の構成
 2章    境界ををこえて
3章  尊皇と攘夷の空間
 4章  決壊の元治元年
 断章  大政奉還
 5章  残照の近代

上記の展示が行われます。県外からも多くの資料が展示され、専門家による解説も有り、ボリュームのある展示のようです。(ここまで)
詳しくはリンク 茨城県歴史館テーマ展・特別展

終了 The exhibition has ended at History Museum



つぶやき
水戸(藩・藩士)の維新に関わる役割は大きなものでした。
水戸の皇道思想と民を大切にする思いには古い歴史があった。
桜田門事件はなぜ起きたのでしょう。
井伊直弼(大老)は13代家定から大老職を急遽命じられた。
天狗党事件はなぜ起きたのでしょう。
新選組って全員佐幕?
一橋家、紀州家、尾張家、水戸家、は円満だったか。
皇室と幕府の関係は。皇室の禄は多かったか。
開国は完璧?
日本と外国との条約は。幕府と水戸との外国船入港の考えの相違は。
幕府の水戸に対する圧力は大きいものでした。水戸藩主徳川斉昭の謹慎をはじめとして、おおくありました。
軽やかに港を開港すると多くの外国船が入り、アヘンなどの薬物が出回り、他国にも前例があるように支離滅裂になってしまう。また為替の混乱、交換レートの不平等によって
多くの金が流失する。実際、開国初期段階で紙幣を渡されて金が流失している。
そのようなことを考えながら見に行ってくる予定です。


2017年9月5日火曜日

瓦塚窯跡展 石岡ふるさと歴史館 Seventh century~ Hitachi Kokubunji roof kiln ruins

瓦塚窯跡展が石岡ふるさと歴史館で2017-8月1日~10月29日まで開かれています。

瓦塚窯跡は国指定史跡に指定されることになりました。
最初は常陸国分寺の瓦を焼きましたが10世紀頃まで県内のいくつもの寺院などへ供給されたようです。
八郷地区、部原(hebara)の広葉樹林台地にあって、昭和12年7月16日茨城県指定史跡「瓦塚遺跡」に指定されていました。今回までの発掘調査によって35基もの窯跡が確認されました。窯跡から出た軒瓦や丸瓦その他の焼き物が数多く展示されています。詳しくは石岡ふるさと歴史館で。
展示パネルと展示品の写真をごく一部解説なしで紹介させていただきます。私も8月のとある一日見学させていただきました。

このテーマの展示は終了しました。
The exhibition has ended at History Museum.

瓦塚遺跡ってどんなところ?
ギター文化館の近くです。
これは私の2011年の写真です。
リンク→ 瓦塚遺跡 石岡市部原(へばら)
 瓦塚窯跡展パネル i石岡ふるさと歴史館で。2017・8月



 瓦の実物  2017年 8月














この後、佐久良東雄展が開かれています
詳しくは『石岡ふるさと歴史館』ホームページへ直接どうぞ(石岡市ホームページ)
そちらから、この佐久良東雄展を含め、過去の展示をPDFで閲覧することが出来ます。
石岡市ふるさと歴史館過去の展示PDF

2017年9月2日土曜日

長法寺十一面観音(長峯寺)Cho-hoji Eleven faced Kan-non Ishioka


長法寺十一面観音(長峯寺)(若松観音堂、馬頭観音堂 長法寺観音)


長法寺十一面観音 Cho-hoji Eleven faced Kan-non

茨城県指定有形文化財「彫刻」十一面観音立像

 石岡市若宮一丁目八 
 昭和40年2月24日指定

一木造りで像高141cm、鎌倉時代の作とされている。
冠、天冠台上の化仏はすべて失われている。
昔、この付近にあった寺、長法(峯)寺に安置されていたと伝わる。
長法寺十一面観音像
府中雑記によると長峰寺(ちょうほうじ,長法寺、長峯寺)の地名は宝永年間若松町に改められた。
ここは摩利支天本観音堂と称したが奉行井上源三により観音堂は残し、すぐ近くの畑中に有った摩利支天は京の馬場に移された。(同じ若松町だが数百メートル北西)。(近代になってこの摩利支天は八幡宮へ合祀された)。また、摩利支天は別に龍光院にも造立されたという。(石岡の地誌)
江戸時代馬頭観音は各地で賑わった。ここでも正月十八日の縁日は馬の手綱を引き参拝で賑わった。そして、笹の葉を買って帰ったという。(常府古跡案内しるべ 天明四年 山口仙栄著-石岡の地誌より)
平成29年の現在も東耀寺による観音経護摩供養が同日に行われている。
明治 3年2月10日 夜、石岡町若松町から出火して約500 軒消失の火災があった。
この火災で長法寺も焼けたという説もあるが定かでない。
おそらくは観音堂の建物が類焼した。
また、天正年間、府中の街は佐竹氏との戦火によって街のほとんどが灰燼と帰した。

 長法寺には有名な刀工長法寺正俊が住んでいたが後相州鎌倉に住んだ。刀剣は今も東京国立博物館に所蔵されている。
府中長法寺在は寛永年間(1624~1645)ごろで(刀剣からの判定?)後、寛延四年(1751)の修復記録が存在するようだ。一族がここを中心に刀匠として活躍していたのだろう。
このほかにも常陸国府銘の刀剣も伝わっているようです。
常陸国府が置かれたので刀剣、甲冑、製鉄所が有った   (図説石岡市史他)
寛延四年とは宝暦元年でこの年は八代将軍吉宗が亡くなっている。)

観音考
観音菩薩は世間の苦を救う仏として身近に崇められてきた。
法華経、観世音菩薩普門品第二十五で観音に救いを求めるものには応じるとされる。
十一面観音、千手観音、馬頭観音、聖観音他があり,もともとは一体である。
観音は釈迦と民衆を常に祈っているという。
石岡東の峰にある「峰寺山 西光院」にも祀られている。平安時代の大同年間徳一大師が
自然の中に仏を発見し開山したという。
 長法寺十一面観音像
長法寺十一面観音像 
 長法寺十一面観音像
 長法寺十一面観音堂
 長法寺十一面観音堂
案内板
 案内板拡大
 長法寺十一面観音像
 長法寺十一面観音像
長法寺十一面観音像 

2017年8月12日土曜日

東耀寺 石岡市  Touyouji temple Ishioka Ibaraki


東耀寺(とうようじ)
      天台宗 高照山養願院東耀寺
      石岡市若宮一丁目一番十三
      本尊は阿弥陀如来

東耀寺は寺院伝によると養老5年(721)に創建したといわれる。 
また、同寺天台宗第二世玄舜法印古棟札留によると開山は大宝年間頃(701~703)弓削道鏡が伽藍を建立したという説が最も古く(平村古今抜要集-石岡の地誌)、後、徳一法師がここに逗留したと説もあります。
徳一法師は筑波山知足院中禅寺、大御堂を建立し、石岡市の峰寺山西光院、桜川市岩瀬の月山寺、東城寺(弟子の最仙とも伝わる)筑波山南側、椎尾山薬王院(弟子の最仙開基)などをを建立しました。徳一師は気候温暖で人の行き来が多い筑波山に逗留し布教を広めた後、会津、いわき方面へ向かいました。筑波山からほど近い閑居山、菖蒲沢薬師堂にも徳一師逗留の言い伝えがあります。
徳一法師の 法相宗本山は興福寺と薬師寺であり、興福寺は藤原氏のゆかりの寺として栄えました。
 東耀寺は江戸時代常陸四山のひとつとも云われ近くの千手院と共に栄えていました。
天元三年(980)頃は広大寺と称し常陸國總社宮の臨時祭を行ったという記録があります。(石岡の地誌)
寛永年間に真言宗から天台宗に改宗したいう記録がある。(石岡市史ほか)

松平播磨の守、元禄十三年辰の年より享保十五年まで三十一年間府中の地を領す。
当所郡奉行井上源三により「總社明神は神道にあるべき」により釈迦如来、薬師、観音、地蔵、文殊像、また、總社の社僧を東耀寺に移し後、観音菩薩像(伝慈光大師作)は富田の神宮寺に移す。(現、北向き観音堂。東耀寺には別観音像あり両、府中六観音の一)(石岡の地誌)
  同寺寛永年間の真言から天台への改宗は、家康の慶長8年(1603)江戸幕府開設により宗教の改革が行われました。それまでは、中央など大寺院の仏教教団の勢力が大きく、兵力と呼べるほど多数の僧兵を抱えていた。
 その勢力の背景には、荘園経営、通行税、特産品の販売権の収入があった。
そのような寺院勢力を幕府は整理解体にかかり、慶長14年~寛永8年にかけて法度の令を通達した。これらは仏教を本道に正しまた、寛永の通達には本寺末寺の制、寺格、行位(寺院の職務)があった。これらを遂行するため幕府の監督指導のもと各藩は寺院を監督下においた。-江戸期における仏教政策にみる教育事情-現代密教13号、田中悠文氏論文
 私の考えでは強制的な「寛永の通達、本寺末寺の制」を承服できなかったのかもしれません。また、いくつかの書物には、当時加茂南円寺末とありますが(石岡の地誌、図説石岡市史)かすみがうら市加茂南円寺は開基は応永1(1394)で東耀寺より遅い開基であったが、南円寺は小田氏祈願の四大寺(普門寺-つくば市神郡ほか)のひとつであったことから大きく栄えた。大きな寺院、普門寺は天台から真言に小田氏によって改宗となった。また四大寺はかなりの僧兵を抱えていた。そのようなことから中央(幕府、宗本山)からの命令が
最初に南円寺に届いた。

そして、東耀寺は江戸上野にある東叡山(寛永寺)慈照大師に話し快諾を得たと思われます。正式には寛永17年7月改宗となり、慈照大師の思召をもって東照神君を勧進した。当時東耀寺は末寺15ヶ寺、旦那(信徒)320軒の寺であった。(平村古今抜要集-石岡の地誌)
東叡山とは西に本山の叡山、東に東叡山があり、東叡山上野寛永寺は徳川家ゆかりの深い寺として格式がありました。高照山の名は他にもあり福岡に完成した荒戸山東照宮(1652完成)の寺院へ叡山から高僧を招き高照山松源院福祥寺が開山しました。
 寺には書道の兼子天来、天狗党の小林豊次郎、新撰組の鈴木三樹三郎、生麦事件の佐谷戸貞三郎の墓がある。

 東耀寺 石岡市
 東耀寺山門 高照山の名
 東耀寺 門前から
焰魔堂 非公開?