東耀寺(とうようじ)
天台宗 高照山養願院東耀寺
石岡市若宮一丁目一番十三
本尊は阿弥陀如来
東耀寺は寺院伝によると養老5年(721)に創建したといわれる。
また、同寺天台宗第二世玄舜法印古棟札留によると開山は大宝年間頃(701~703)弓削道鏡が伽藍を建立したという説が最も古く(平村古今抜要集-石岡の地誌)、後、徳一法師がここに逗留したと説もあります。
徳一法師は筑波山知足院中禅寺、大御堂を建立し、石岡市の峰寺山西光院、桜川市岩瀬の月山寺、東城寺(弟子の最仙とも伝わる)筑波山南側、椎尾山薬王院(弟子の最仙開基)などをを建立しました。徳一師は気候温暖で人の行き来が多い筑波山に逗留し布教を広めた後、会津、いわき方面へ向かいました。筑波山からほど近い閑居山、菖蒲沢薬師堂にも徳一師逗留の言い伝えがあります。
徳一法師の 法相宗本山は興福寺と薬師寺であり、興福寺は藤原氏のゆかりの寺として栄えました。
東耀寺は江戸時代常陸四山のひとつとも云われ近くの千手院と共に栄えていました。
天元三年(980)頃は広大寺と称し常陸國總社宮の臨時祭を行ったという記録があります。(石岡の地誌)
寛永年間に真言宗から天台宗に改宗したいう記録がある。(石岡市史ほか)
松平播磨の守、元禄十三年辰の年より享保十五年まで三十一年間府中の地を領す。
当所郡奉行井上源三により「總社明神は神道にあるべき」により釈迦如来、薬師、観音、地蔵、文殊像、また、總社の社僧を東耀寺に移し後、観音菩薩像(伝慈光大師作)は富田の神宮寺に移す。(現、北向き観音堂。東耀寺には別観音像あり両、府中六観音の一)(石岡の地誌)
同寺寛永年間の真言から天台への改宗は、家康の慶長8年(1603)江戸幕府開設により宗教の改革が行われました。それまでは、中央など大寺院の仏教教団の勢力が大きく、兵力と呼べるほど多数の僧兵を抱えていた。
その勢力の背景には、荘園経営、通行税、特産品の販売権の収入があった。
そのような寺院勢力を幕府は整理解体にかかり、慶長14年~寛永8年にかけて法度の令を通達した。これらは仏教を本道に正しまた、寛永の通達には本寺末寺の制、寺格、行位(寺院の職務)があった。これらを遂行するため幕府の監督指導のもと各藩は寺院を監督下においた。-江戸期における仏教政策にみる教育事情-現代密教13号、田中悠文氏論文
私の考えでは強制的な「寛永の通達、本寺末寺の制」を承服できなかったのかもしれません。また、いくつかの書物には、当時加茂南円寺末とありますが(石岡の地誌、図説石岡市史)かすみがうら市加茂南円寺は開基は応永1(1394)で東耀寺より遅い開基であったが、南円寺は小田氏祈願の四大寺(普門寺-つくば市神郡ほか)のひとつであったことから大きく栄えた。大きな寺院、普門寺は天台から真言に小田氏によって改宗となった。また四大寺はかなりの僧兵を抱えていた。そのようなことから中央(幕府、宗本山)からの命令が
最初に南円寺に届いた。
そして、東耀寺は江戸上野にある東叡山(寛永寺)慈照大師に話し快諾を得たと思われます。正式には寛永17年7月改宗となり、慈照大師の思召をもって東照神君を勧進した。当時東耀寺は末寺15ヶ寺、旦那(信徒)320軒の寺であった。(平村古今抜要集-石岡の地誌)
東叡山とは西に本山の叡山、東に東叡山があり、東叡山上野寛永寺は徳川家ゆかりの深い寺として格式がありました。高照山の名は他にもあり福岡に完成した荒戸山東照宮(1652完成)の寺院へ叡山から高僧を招き高照山松源院福祥寺が開山しました。
寺には書道の兼子天来、天狗党の小林豊次郎、新撰組の鈴木三樹三郎、生麦事件の佐谷戸貞三郎の墓がある。
東耀寺 石岡市
東耀寺山門 高照山の名
東耀寺 門前から
焰魔堂 非公開?