2017年8月12日土曜日

東耀寺 石岡市  Touyouji temple Ishioka Ibaraki


東耀寺(とうようじ)
      天台宗 高照山養願院東耀寺
      石岡市若宮一丁目一番十三
      本尊は阿弥陀如来

東耀寺は寺院伝によると養老5年(721)に創建したといわれる。 
また、同寺天台宗第二世玄舜法印古棟札留によると開山は大宝年間頃(701~703)弓削道鏡が伽藍を建立したという説が最も古く(平村古今抜要集-石岡の地誌)、後、徳一法師がここに逗留したと説もあります。
徳一法師は筑波山知足院中禅寺、大御堂を建立し、石岡市の峰寺山西光院、桜川市岩瀬の月山寺、東城寺(弟子の最仙とも伝わる)筑波山南側、椎尾山薬王院(弟子の最仙開基)などをを建立しました。徳一師は気候温暖で人の行き来が多い筑波山に逗留し布教を広めた後、会津、いわき方面へ向かいました。筑波山からほど近い閑居山、菖蒲沢薬師堂にも徳一師逗留の言い伝えがあります。
徳一法師の 法相宗本山は興福寺と薬師寺であり、興福寺は藤原氏のゆかりの寺として栄えました。
 東耀寺は江戸時代常陸四山のひとつとも云われ近くの千手院と共に栄えていました。
天元三年(980)頃は広大寺と称し常陸國總社宮の臨時祭を行ったという記録があります。(石岡の地誌)
寛永年間に真言宗から天台宗に改宗したいう記録がある。(石岡市史ほか)

松平播磨の守、元禄十三年辰の年より享保十五年まで三十一年間府中の地を領す。
当所郡奉行井上源三により「總社明神は神道にあるべき」により釈迦如来、薬師、観音、地蔵、文殊像、また、總社の社僧を東耀寺に移し後、観音菩薩像(伝慈光大師作)は富田の神宮寺に移す。(現、北向き観音堂。東耀寺には別観音像あり両、府中六観音の一)(石岡の地誌)
  同寺寛永年間の真言から天台への改宗は、家康の慶長8年(1603)江戸幕府開設により宗教の改革が行われました。それまでは、中央など大寺院の仏教教団の勢力が大きく、兵力と呼べるほど多数の僧兵を抱えていた。
 その勢力の背景には、荘園経営、通行税、特産品の販売権の収入があった。
そのような寺院勢力を幕府は整理解体にかかり、慶長14年~寛永8年にかけて法度の令を通達した。これらは仏教を本道に正しまた、寛永の通達には本寺末寺の制、寺格、行位(寺院の職務)があった。これらを遂行するため幕府の監督指導のもと各藩は寺院を監督下においた。-江戸期における仏教政策にみる教育事情-現代密教13号、田中悠文氏論文
 私の考えでは強制的な「寛永の通達、本寺末寺の制」を承服できなかったのかもしれません。また、いくつかの書物には、当時加茂南円寺末とありますが(石岡の地誌、図説石岡市史)かすみがうら市加茂南円寺は開基は応永1(1394)で東耀寺より遅い開基であったが、南円寺は小田氏祈願の四大寺(普門寺-つくば市神郡ほか)のひとつであったことから大きく栄えた。大きな寺院、普門寺は天台から真言に小田氏によって改宗となった。また四大寺はかなりの僧兵を抱えていた。そのようなことから中央(幕府、宗本山)からの命令が
最初に南円寺に届いた。

そして、東耀寺は江戸上野にある東叡山(寛永寺)慈照大師に話し快諾を得たと思われます。正式には寛永17年7月改宗となり、慈照大師の思召をもって東照神君を勧進した。当時東耀寺は末寺15ヶ寺、旦那(信徒)320軒の寺であった。(平村古今抜要集-石岡の地誌)
東叡山とは西に本山の叡山、東に東叡山があり、東叡山上野寛永寺は徳川家ゆかりの深い寺として格式がありました。高照山の名は他にもあり福岡に完成した荒戸山東照宮(1652完成)の寺院へ叡山から高僧を招き高照山松源院福祥寺が開山しました。
 寺には書道の兼子天来、天狗党の小林豊次郎、新撰組の鈴木三樹三郎、生麦事件の佐谷戸貞三郎の墓がある。

 東耀寺 石岡市
 東耀寺山門 高照山の名
 東耀寺 門前から
焰魔堂 非公開? 


2016年10月6日木曜日

看板建築ほか石岡市内の写真 Signboard architecture and Street view of Ishioka

石岡市内にはかって常陸国国府があり、東海道も石岡が出発点でした。
そして、長い期間には大きな歴史の推移がありました。明治,大正と続き昭和のはじめになって、石岡市内にはいくつもの看板建築の建物が建てられました。一階は商店、仕事場、二階が住まいでした。石岡駅前通りを徒歩で過ぎ信号を左折すると今の石岡市国府、このあたりです。
 東北大震災の時まちも全体的にかなり被害を受けましたがなんとか復旧しました。
石岡市内の看板建築 市内国府にて 2016/10
               石岡の街並み 丁子屋     2016/10  写真2
       石岡の街並み 福島屋   写真3
        東京庵そば          写真4
     看板建築の説明板 各々に表記  写真5
石岡の街並 看板建築         写真6
  石岡の街並 看板建築       写真7
   石岡の街並み 看板建築     写真8
   石岡の街並  看板建築   写真9
       石岡の街並 看板建築    写真10
   石岡の街並み 看板建築        写真11
      石岡の街並み 看板建築    写真12
   石岡の街並  看板建築     写真13
    石岡の街並 看板建築           写真14
   石岡の街並  看板建築      写真15
  石岡の街並 板建築   photo16
    石岡の街並 看板建築       写真17
   石岡の街並  看板建築        写真18
                             こんぴら神社    photo19
        石岡市内国府    写真20
             石岡市内国府     写真21
       石岡市内国府      写真22
     石岡の街並 看板建築  写真23
     石岡の街並 看板建築2016/10  写真24
(株)府中酒造 2008/10/04 写真25
 (株)府中酒造 2008/10/04   photo26
 (株)府中酒造 2008/10/04  photo27
(株)府中酒造 2008/10/04   photo28
石岡の街並 看板建築 2016/10  写真29
栗山呉服店 2016/11/28   photo 30
市内国府にて  2016/11/28   photo 31

2016年9月28日水曜日

縄解き地蔵 石岡市井関 ・Our Ksitigarbha at Iseki Ishioka

  八木の縄解き地蔵  石岡市井関字八木

 Our Ksitigarbha or Jizoubosatu at Iseki Ishioka

八木の縄解き地蔵は水戸藩のおもに北郡でご用になり、所払いになった人々を霞ヶ浦の対岸から船に乗せ、縄解き地蔵前で解き放ったと伝わる。
八木の以前にはもと「風返し」八木からはそう離れていない(現在のかすみがうら市三ツ谷)付近の霞ヶ浦湖岸付近にあったと云われています。
三ツ谷湖岸や八木湖岸から細い道を丘を上るといくつかの古墳群があり、むかし霞ヶ浦を生活圏とした氏族が暮らしていました。
 縄解き地蔵は、お地蔵様として地元で慕われていました。
身ごもった人がここから小さな地蔵像を頂きお産が終わると2個にして返したという。
 仏教界で六道とは天道、人間道、 修羅道、 畜生道、 餓鬼道、 地獄道があって、
 地蔵菩薩は 畜生道、 餓鬼道、 地獄道へ堕ちないように見守ってくださる仏です。
菩薩(仏)を信じ、恨みと欲(貪欲、どんよく)を捨てると輪廻転生し天道、人間道に近づくと教えています。
地蔵堂の中にあるものや各地の寺院の庭園にあるものなど平安時代から観世音菩薩と並んで庶民から親しまれてきました。
縄解き地蔵尊は栃木県壬生にもあるようです。
 八木の話とは別ですがたしか、東京にはしばられ地蔵尊が2カ所あるようで、江戸町奉行から縄をかけられた面白い話があり、葛飾区にある業平山 南蔵院はお地蔵さんを縄で巻き願い事をする祭りがあるそうです。
八木の縄解き地蔵   photo 2016/09/18
八木の縄解き地蔵
八木の縄解き地蔵
道標 左 古酒(ふるさき)馬場山 深谷
右 梶和崎 井関 石川  
常陸国分寺の地蔵尊 2009/09/06
かすみがうら市三ツ谷付近 霞ヶ浦湖岸 1995-11
山の神古墳  かすみがうら市(city Kasumigaura) 2016-03
浅間山古墳 かすみがうら市  2016-03
風返し浅間山古墳 かすみがうら市  2016-03
馬頭観世音 かすみがうら市  2016-03
大六天(第六天)・・・かすみがうら市  2016-03

大六天(魔王)は 廃仏毀釈によって
多くの神社では仏として現在祀られていない。
大六天魔王は法華経によって魔が解かれたでしょうか?
天界と魔界は和合できたのでしょうか。
茨城でも麻生などで祀られていました。
子安神社と対馬神社素鵞神社  かすみがうら市
素鵞神社本殿 かすみがうら市 2016-03
道祖神 素鵞神社境内 2016-03
素鵞神社 かすみがうら市 2016-03
奉納額 霞ヶ浦 素鵞神社 かすみがうら市 2006_07(公開日)
鳥居の額 素鵞神社 かすみがうら市 2006_o7

or Nawatokijizou 縄とき地蔵 石岡市井関