長法寺十一面観音(長峯寺)(若松観音堂、馬頭観音堂 長法寺観音)
長法寺十一面観音 Cho-hoji Eleven faced Kan-non
茨城県指定有形文化財「彫刻」十一面観音立像
石岡市若宮一丁目八昭和40年2月24日指定
一木造りで像高141cm、鎌倉時代の作とされている。
冠、天冠台上の化仏はすべて失われている。
昔、この付近にあった寺、長法(峯)寺に安置されていたと伝わる。
長法寺十一面観音像
府中雑記によると長峰寺(ちょうほうじ,長法寺、長峯寺)の地名は宝永年間若松町に改められた。ここは摩利支天本観音堂と称したが奉行井上源三により観音堂は残し、すぐ近くの畑中に有った摩利支天は京の馬場に移された。(同じ若松町だが数百メートル北西)。(近代になってこの摩利支天は八幡宮へ合祀された)。また、摩利支天は別に龍光院にも造立されたという。(石岡の地誌)
江戸時代馬頭観音は各地で賑わった。ここでも正月十八日の縁日は馬の手綱を引き参拝で賑わった。そして、笹の葉を買って帰ったという。(常府古跡案内しるべ 天明四年 山口仙栄著-石岡の地誌より)
平成29年の現在も東耀寺による観音経護摩供養が同日に行われている。
明治 3年2月10日 夜、石岡町若松町から出火して約500 軒消失の火災があった。
この火災で長法寺も焼けたという説もあるが定かでない。
おそらくは観音堂の建物が類焼した。
また、天正年間、府中の街は佐竹氏との戦火によって街のほとんどが灰燼と帰した。
長法寺には有名な刀工長法寺正俊が住んでいたが後相州鎌倉に住んだ。刀剣は今も東京国立博物館に所蔵されている。
府中長法寺在は寛永年間(1624~1645)ごろで(刀剣からの判定?)後、寛延四年(1751)の修復記録が存在するようだ。一族がここを中心に刀匠として活躍していたのだろう。
このほかにも常陸国府銘の刀剣も伝わっているようです。
常陸国府が置かれたので刀剣、甲冑、製鉄所が有った (図説石岡市史他)
寛延四年とは宝暦元年でこの年は八代将軍吉宗が亡くなっている。)
観音考
観音菩薩は世間の苦を救う仏として身近に崇められてきた。
法華経、観世音菩薩普門品第二十五で観音に救いを求めるものには応じるとされる。
十一面観音、千手観音、馬頭観音、聖観音他があり,もともとは一体である。
観音は釈迦と民衆を常に祈っているという。
石岡東の峰にある「峰寺山 西光院」にも祀られている。平安時代の大同年間徳一大師が
自然の中に仏を発見し開山したという。
長法寺十一面観音像
長法寺十一面観音像
長法寺十一面観音像
長法寺十一面観音堂
長法寺十一面観音堂
案内板
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長法寺十一面観音像
長法寺十一面観音像
長法寺十一面観音像
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