2015年10月3日土曜日

常陸国分寺跡(国特別史跡) Hitachi kokubunji temple Ishioka

常陸国分寺跡(国特別史跡) 石岡市

常陸国分寺は聖武天皇天平15年(743)起工し、天平勝宝4年(752)に成就建立された。(常陸府中鏡)天平勝宝4年5月常陸の守は従三位、宮内卿、百済の王敬福(くだらのこにきしけいふく)が任命された。都では東大寺が時をほぼ同じくして起工が始まった。
常陸国分僧寺は最勝王経10部と僧20名、封戸50戸、水田10町、寺料は六万束で近江の国と共に最高であった。塔跡の七重の塔には金宇金光明最勝王経が配置され、金堂跡の礎石、講堂跡の礎石、中門跡礎石、回廊跡、仁王門跡がある。寺域は東西約270m南北約240mの規模であった。現在の山門は一九一九年三月旧千手院が国分寺との合併により廃寺となり国分寺に移された。

常陸国国分僧寺跡(金光明四天王護国之寺)
 金堂跡(現在の本堂に当たる)
 講堂跡
 中門跡
 回廊跡
 塔跡(七重の塔心礎)
 ↑【参考】(石岡市史、石岡の歴史、石岡の地誌)

 現在の国分寺境内には杉などのほか桜の木が多くあって開花時には多くの人が訪れている。金堂跡や講堂跡、七重の塔心礎の礎石が木々の間に位置し、千数百年前の国分寺の姿が偲ばれる。千手院は国分寺の近くにあった舊い寺、真言宗菩堤山來高寺千手院と称し密教の霊場として、また、信仰の中心として末寺や多くの門徒があり、国分寺とは密接な間柄であった。
↑【参考】(新編常陸国誌、常府古跡案内しるべ・山口仙栄 天明四年{石岡の地誌})

都々逸坊扇歌堂と都々逸扇歌の墓

 扇歌は文化元年(1804)久慈郡佐竹村磯部(現、常陸太田市)に生まれた。少年時代から音曲への憧れと素質があり、5~5年放浪の修業後家に戻り許しを請い、江戸へ向けて家を後にしたのは文政6年春(1823)扇歌20歳であった。道を奥州路にとり、道行の家々の軒で歌いながら修業した。
上州路から修業しながら宇都宮に入ったころには街の人気が高くなっていた。そして、江戸へ出て音曲噺の大家、船遊亭扇橋に弟子入りし、20年後の天保9年秋寄せの上座に上がった。江戸の評判も高くなった。さらに扇歌は京、大坂方面を巡業し都々逸を広めた。江戸へ戻ったころには寄席は満員となった。お上も恐れず風刺歌を歌ったので幕府から江戸払いとなった。そして、姉の嫁ぎ先の常陸府中に身を寄せた。後、身体を崩し「今日の旅 花か紅葉か知らないけれど 風に吹かれて行くわいな」の歌を残してこの世を去った。
扇歌堂は昭和8年全国からの浄財寄付によって完成された。</strong>
↑【参考】(初代都々逸坊扇歌・石岡都々逸保存会案内パンフレット、境内案内板

西北約600mには国分尼寺跡がある。常陸国衙は南西約1km総社1丁目、石岡小学校校庭にあって大規模な発掘調査が数次行われ、国衙跡の全容が解明され、国の文化財に指定された。

◆たんと売れても売れない日でも
 同じ機嫌のかざぐるま。

◆汐時やいつかと千鳥に聞けば
 わたしゃ立つ鳥波に聞け。

◆あきらめましたよもうあきらめた
 あきらめられぬもうあきらめた。
  (初代都々逸坊の歌)

1300年以上前の歴史は、ひっそりとした境内に残された礎石だけですが当時が偲ばれます。
むかしの国分寺山門(焼失)
常陸国分寺案内板
 常陸国分寺薬師堂
 常陸国分寺七重塔心礎 2009/02/12
 常陸国分寺七重塔心礎 2009/02/12 photo2
 常陸国分寺七重塔心礎 2015/09/28 写真1
 常陸国分寺七重塔心礎 2015/09/28 写真2
2009年から6年後石が見にくくなっている。↑
2016/04/05心礎の周りはすっきり手入れされていた。
 常陸国分寺金堂跡
 常陸国分寺講堂跡
 常陸国分寺金堂跡
常陸国分寺金堂、講堂跡
 現在の国分寺本堂
 国分寺太子堂
古い灯籠 
 現在の国分寺本堂
旧千手院山門 1
  常陸国分寺薬師堂

旧千手院山門  2
 光明真言の石碑?
地蔵菩薩
 都々逸扇歌堂案内板
 都々逸扇歌堂 photo 1
 都々逸扇歌堂 photo 2
旧千手院山門 2
旧千手院山門 3
常陸国分寺中門跡      110kb_test
本堂と 都々逸扇歌堂 
  都々逸扇歌堂 photo 3
本堂と 都々逸扇歌堂 2 
都々逸歌碑
たんとうれてもうれないひでも
おなじきげんのかざぐるま
写真追加↓
金剛界大日如来か風化大 2008/08/26
 金堂跡  2008/08/26
講堂跡  2008/08/26
 昭和40年代 今の本堂 写真1
  昭和40年代 今の本堂戸扇歌堂 写真2
 昭和40年代 今の本堂 写真3
 昭和40年代 今の本堂戸扇歌堂 写真4
 昭和40年代  旧建物跡付近
 昭和40年代  扇歌堂
むかしの山門〈焼失)


2015年10月2日金曜日

桑の大木 京の馬場 石岡市若宮  Large mulberry and silk and faith

桑の大木 京の馬場 石岡市若宮

旧書に見える京の馬場(石岡市若宮)を散策していたら大木の桑の木を発見、これはすごい。

チャウ(張の馬場)か京の馬場(饗(キョウ)か・・祭祀か養蚕か??

桑の木の葉が丸いのでログワと思われます。三人抱えぐらいありそうです。
明治時代の石岡付近の地図を見ると桑畑が多くありました。
「府中雑記」という書に京の馬場に権現あり、(千手院支配)・・・毎年ここでコクショ乾の方角へ蓬の矢を射た。京の馬場はチャウの馬場とも云う。チャウは張で弓を張ることの意味も考えられます。慶長の検地帳にはチャウの馬場トアリ。チャウは旧仮名遣いで現在はチョウ読みます。京の馬場、は音から饗(キョウ)の文字が当てはまることも考えられると「府中雑記」に載っています。あるいは長の馬場でしょうか。近くの石岡市若松町(旧名)に長法寺という寺があった。町名もむかしは長法寺であった。旧書、図説石岡市史 では庁の馬場と紹介されています。 
 この他古来から弓は櫨(ハゼ)、真弓(まゆみ)梓(アズサ・カバノキ科)槻(つき・ケヤキの古語)うつぎ(卯木昔、空木とも書かれた)があります。
 蓬矢桑弓(ほうしそうきゅう)という熟語があり、桑の弓を以て蓬の矢を射るという
 古代からの儀式で魔を射ると伝わる。桑蓬の志とは、立志のこと。
 中国・・桑弧蓬矢 (そうこほうし)魔を射る。また、男子が出生のとき是を以て立志の祈願をした。破魔矢の意義も同じでしょうか。
○少し追加します。府中に伝わる「供分衆年中勤之事」によりますと
正月十日長の馬場で祭礼(文面省略)。
十三日長ノ馬場ニテ祭礼夜ニ入りテコクショウウツキノ弓ウツキノ矢ニテヤタウン鬼ヲ射払。
慶長五庚子年二月・・・虫喰い・・・千手院年中行事
{卯木の木も使われていたんですね。唱える言葉が良く理解できない、教えて下さい}
参考
 群馬県板倉町商工会 文化財巡り(西コース)の記事に下記似ているような記事がありました。今も民間に伝わっているのですね。
http://itakura-s.jp/002_2_4.html
長良神社弓取式(町指定)
毎年1月10日に岩田長良神社で「弓取式」が行われます。
10歳前後になる男子によリ行われますが、弓は空木(うつぎ)で、矢は篠竹でつくり的を立てます。大世話人が「テンピョウブレ、マンビョウブレ」と叫んで、天に向かって矢を射ると、次に子どもたちが一斉に的めがけて矢を放ちます。この行事は、この地方を築いた土豪集団が元服による流嫡馬(やぶさめ)のような尚武的成人式と考えられ、いつ頃からか一般庶民の行事に変化してきたようです。

 養蚕は奈良時代から続く産業で明治以前は各々の家の産業であった。
明治になって石岡製糸所、熊岡製糸所ができ、大正になって小口組→神栄製糸工場となり、
紡ぐ工場は長い場所に一列になって多くのひとが生糸を紡ぎ、それが何列もあり当時見事な近代的な工場でした。又、小工場、繭市場もあり地元産業でした。
養蚕は奈良時代以前から行われていました。
常陸国風土記によると茨城は古、常陸の国と呼ばれ土が肥え、陸や海の作物が豊富で、紡桑コカヒ(養蚕)も盛んでよく働けば豊かな富ができる素晴らしい国と書かれています。また、「疑うことなく常世の国はここだろう」と書かれています。蚕、桑の歴史は1300年以上続くんですね。鬼怒川は当時は毛野川、中世は絹川と呼ばれ、小貝川は蚕飼川と呼ばれた川もあり、流域は養蚕の盛んな場所でした。
筑波山神郡に蚕影神社(こかげじんじゃ)〔蚕影山神社〕があります。
蚕影神社(蠶影神社)は、茨城県つくば市神郡にある神社で養蚕の神、全国一社です。近くに住む人の話によりますと昭和の前半頃まではバスを連ねて長野県などの各地から参拝の人々が訪れたそうです。  ♯石岡 歴史

 桑の大木 石岡市若宮 photo 1
 桑の大木 石岡市若宮 photo 2
 桑の大木 石岡市若宮 photo 3
 桑の大木 石岡市若宮 photo 4
 桑の大木 石岡市若宮 photo 5
 桑の大木 石岡市若宮 photo 6
 桑の大木 石岡市若宮 photo7
 桑の大木 石岡市若宮 photo 8
 桑の大木 石岡市若宮 photo 9〔同じ桑の木)
 京の馬場 歴史地名 石岡市若宮
京の馬場、後の 谷津
 近くの野球のグランド
 恋瀬川河川敷のやや大きい桑 やや多くある
 土浦市小町の里の太い桑
 土浦市小町の里の太い桑 2
土浦市小町の里の太い桑 3〔同じ桑の木)

蚕影山神社 (こかげさんじんじゃ)  蠶影神社

やはり筑波神郡の景観は神聖なイメージ

【鎮座地】つくば市神郡(田井地区)

【祭神】】稚産霊命(わかみむすびのかみ)、左右に埴山姫命(はにやまひめのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

崇神天皇時代に祀られたと伝えられる。(筑波山・岩上方外明治37年、交通世界社刊)成務朝時代筑波国造りが赴任されると同時に養蚕や農業の発展に力が注がれ、豊浦に稚産霊命が祀られた。このころ山の麓に蚕影山桑林寺が建立された。(茨城県神社誌)この神郡村館地区にあった蚕影山桑林寺は廃仏毀釈により廃寺となった。(茨城県の地名・平凡社)
 神社はつくば市神郡にあって筑波山がすぐ近くに聳えている。養蚕の神社の始まりで麓のひとの話によりますと以前はかなり遠くからバスなどでも参拝の人々が訪れたそうです。神社には多くの奉納額が飾られているが中に絵額で興味深いものが1枚目立った。奉納者は長野縣信濃國小縣郡神川村大字国分 國分蠶業會社員蚕種製造人山邊六兵衛とあり、年代がわかると面白いが今回の写真からは判読できなかった。神川村は現在は長野県上田市神川で此の地は養蚕のさかえたところであった。また、国分には信濃国分寺が置かれた。『養蚕秘録口伝書』、和田惣右衛門著、明治27(国立国会図書館蔵)「天竺霖異大王之事」などによると天竺の霖異大王の再婚によって姫”金色姫”がねたまれ数回遠方へ流された。はじめは獅子に助けられ、次は鷹の山で鷹に助けられた。姫がまた国に戻ったので殺されてしまったが土中より光明が輝いたので王が掘らせしめたところ金色姫は健在であった。王は驚き桑の船へ乗せ姫を流してしまった。船は常陸の国、豊良の湊へ流れ着き拾われた。姫は死後ひつにいれられたが蚕になり養蚕の始まりになったという。江戸時代には養蚕秘録という本が多く読まれたようである。『蚕影山縁起』、『蚕影山和讃』という書物もあるそうです。この額もそれを物語っていると思います。
 常陸國風土記によると常陸の国は常世の国に疑いなしとされ、土も肥え水陸の産物豊富であり、養蚕も栄えていた。農耕や養蚕に力を入れる者は富を築いた。水田は石高は多かったが自然の影響を受けやすかった。
このほか麻や紫ほかも多く栽培され国へ多く納めた。(栗田寛、古風土記逸文考證)
 万葉集には数多くの筑波山の歌が詠まれているが
筑波嶺の 新桑蠶(まゆ)の 衣はあれど
 君がみけけし あやに着欲しも「巻14 東歌」   〈霞ヶ浦の自然より my old record〉

蚕影山神社 つくば市神郡 (田井地区) 写真1
日本で一社と伝えられる
蚕影山神社 つくば市神郡 (田井地区) 写真2
蚕影山神社 つくば市神郡 (田井地区) 写真3
歴史は奈良時代より昔と伝えられる。
つくば市神郡
蚕影山神社入り口
 時代を感じる階段
 奉納額 栃木県小山市
 長野縣信濃國小縣郡神川村大字国分
 國分蠶業會社員蚕種製造人山邊六兵衛
現在 上田市 養蚕文化
奉納額 結城郡山川村山王? 現結城市
結城は結城紬有名   

蚕影山神社 つくば市神郡の神社は書物によりますと千五百年以上の歴史がありそうです。当時はまだ常陸と云わず、筑波、新治、茨城、那珂、久慈、多珂の国と呼ばれていました。常陸の国、茨城は蚕の歴史が地名も含みとても多くあります。