2015年10月23日金曜日

鴻の宮・国府宮  石岡市 Kounomiya Ishioka

鴻の宮・国府宮 (こうのみや)  石岡市         

鴻の宮・国府宮は石岡の歴史にいい伝わる旧い祠の社。
国府や府中の歴史を訪ねて歩いていたら古書に伝わる場所の近くに祠があった。(確定ではありません)詳しく調べないとなりませんが取りあえず更新します。写真は残念ながら間違いのようでした。この場所から直ぐ近くらしいのですが、現在屋敷になっていて確認できませんでした。


鴻の宮・国府宮は国府、府中の古書に散見する。

◎常府古跡案内しるべ(天明四年(1784) 山口仙栄著)に  ・・・民家裏に鴻の宮といふ在り、按るに大和国添上郡大安寺村の南にある所の辰市の社を鴻の宮といふ時は是同神なるか、辰市の社は時風秀行が霊社なりといふ、人皇四十八代正徳天皇の御宇の人也、秀行は鹿島の大宮司の先祖のよし古書に見えたり、又あんずるにむかし鴻といふ鳥此所を舞たるに依りて此所を鴻の府中といふよし、古老いいつたへたり、右に依り常陸大掾を鴻の大掾といいしよし、然れ共鴻の大掾は国府の大掾なるべし、国府と書いて鴻と読みし事古書に見えたり、然らば国府の宮にして大掾家の氏神なるべし
注、下記奈良市●辰市神社参照約230年前の記事。春日神社、藤原氏、鹿島神社と香取神社のはなし。

◎府中雑記 矢口数馬手控え
・・・町農家の後に小社在り、是大掾国香の祭りたる社と云う因って鴨の宮と云うなり

 ◎長峯寺候之宮之事
 鴻の宮、国府宮 、と書くとも云う、候の社なるべし・・・

◎常陸茨城郡府中平城往古記事並諸記録
・府中名所
国分之宮・・・町にあり、

◎石岡誌
鴻之宮・・・町人家の後にあり
往昔鴻鳥 此所を舞し故を以て鴻の府中といひ、常陸大掾を鴻の大掾     いひし由、鴻の大掾は国府の大掾なるへければ、国府の宮にして、大掾家の氏神なりしならんと古記に見ゆ。

そのほか主に鴻之宮に似た神社を調べてみた。
●埼玉県鴻巣市にある鴻神社。鴻三社を明治時代合祀

●岡山県倉敷市にある鴻八幡宮通称、(鴻の宮・コウノミヤ)は、約1300年前の大宝元年(701年)に創建されたと伝えられる

●辰市神社(たついちじんじゃ) 鎮座地    奈良県奈良市杏町64
もと神宮神社(鴻の宮・こうのみや)と称した。
祭神 武甕槌命 經津主命
祭神は春日大社神で常陸国鹿島明神と下総国香取明神のニ座である。
鎮座地は春日大社社家中臣氏の采地で、その末裔辰市家の居館地であった。 
天正年間(1570-73)筒井順慶が松永久秀との戦いで戦火のため焼失、享和二年(1802)から神事は再興された。 
注、奈良の春日大社には常陸鹿島神宮の武甕槌命、下総香取神宮の経津主命、枚岡神社に祀られていた藤原氏の祖、天児屋根命・比売神が祀られている。

●久々比(くくひ)神社(こうのとりの神社)
兵庫県豊岡市下宮
鴻之宮「図説石岡市史」より photo1
鴻之宮?? photo2間違いのようです。



















2015年10月19日月曜日

保呂輪権現 石岡市 HOROWA shrine Ishioka

  保呂輪権現考  

  「保呂羽」「ほろわ」「ほろは」「母衣輪」「保呂輪」 


保呂輪権現 石岡市

   佐竹氏と保呂輪(保呂羽 )神社 石岡市

石岡市若宮(旧宮部)に古くから伝わる保呂輪権現がありました。
保呂輪権現 勧請(慶長七壬寅年八月九日)と下に記した古書にあります。
しかし、昭和40年代常磐高速道の造成工事で地番の続く高速道外の脇の地に移動された。
現在は畑地脇の地で荒れた草むらの中に天正十九年の文字が浮かぶまま庚申講碑が他の旧い石碑と共に悲しく一角に朽ちかけ並んでいました。
江戸時代書かれた書の幾つかを見ると保呂輪権現がここに祀られていました。
「保呂羽」 「ほろわ」「ほろは」という言葉、地名は東北地方を中心として古くから伝わっています。そのほか「保呂輪」、「母衣輪」という文字も使われています。東北や関東に多く「ほろわ」神社があるようです。
保呂羽山波宇志別神社は秋田県横手市大森町八沢木字保呂羽山1-1にある奈良時代、大同年間からある延喜式社です。佐竹氏が常陸から秋田へ移って保呂羽山波宇志別神社は佐竹氏の崇敬によりますます大きくなりました。佐竹氏は常陸でもほろわ神社を崇敬していたようです。
笠間市小原(前友部町小原)・・ここに保呂輪神社があります。茨城県神社誌では里見氏の崇敬社とあります。神護景雲二出雲大神を以て創建、康平四源義家鳥羽乱之神を幌内(?)で37日籠もり勧請したので保呂輪の神と尊称した。国府(石岡)と同じ天正時代佐竹氏の領となり保呂輪神社を崇敬した。同じ「保呂輪」を表記しています。
「ほろわ」という言葉は文字が使用される前からあったのではないかとも思います。古代Ainu語で「ほろ」とは大きいと意味があるそうです。また、『日本三代実録』貞観時代に「保侶」という言葉があるようで、いわゆる「幌」は馬上の人が鎧の下にまとったとされます。そこから「武具」の意味にもなったようです。

石岡市から発行された「石岡の地誌」の中に
◎ 石岡誌 松倉鶴雄編
五 保呂輪権現
宮部に在り、天八降魂命(注3)、又、天忍穂耳耳聴太神(注4)を祭る、竜光院の支配に属す。
四 日光権現
宮部に在り、祭神は大巳貴命(注2)にして毎年陰暦9月15日祭典を行う。
七 鴻之宮(注1)
若松町民家の裏にあり、往古鴻鳥此所を舞ひし故を以て鴻の府中と云ひ、常陸大掾を鴻の大掾といひし由、鴻の大掾は国府の大掾なるへければ、国府の宮にして、大掾家の氏神なりしならんと古記に見ゆ。(原文のまま)

注1、国府宮は各地の国府の地に存在する。今、鴻の宮の地は現在確認できない。
注2,大巳貴命(おおなむちのみこと) 出雲大社の御祭神である大国主命(おおくにぬしのみこと)先代旧事本紀
注3,   天八降魂命。北斗七星  第一、天枢星(ドゥーベ)先代旧事本紀.
注4,  正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。 アメノオシホミミ(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)古事記

 ◎ 諸家蔵書写 加藤松羅 編
 一 府中地之内宮部保呂輪山といふ所に有之候竜光院(注1)支配なり

                                彦六
     天正九年辛巳        清兵衛
 奉供養庚申 伊与守    平右衛門
      十月晦日                新左衛門
                                        玄蕃
                                        彦二郎
(注2上記碑)

注1, 竜光院は 元真地(モトマチ、国府の近くに奈良時代からあった大きな寺。浄瑠璃山竜光院基光寺。近世では東耀寺末であった。むかし、寺宝も多くあったと伝えられる。現在は小さな堂宇がある。
注2、庚申供養の石に刻まれた文字。縦組み。石は現在完全ではないが現存する。
天正九年にこの碑が建てられた九年後の天正十八年(1590)十二月、府中城は佐竹義宣によって攻められ,城は堕ち650年続いた常陸大掾氏は滅亡した。
伊与守とはだれか。

 ◎ 「府中雑記」 矢口数馬手控
一 宮部日光権現ハ不動院支配
一 ホロハ権現は竜光院支配ニテ神体と云ハ苞ニ包、住僧ノ替リ毎ニ一重宛包ムト也、
開キ拝スルコトハ古ヨリ堅禁也

注、 苞 (ほう。つと。)

◎ 「平村古今抜要集」 作者不詳
一 保呂輪権現 勧請(慶長七壬寅年八月九日)社地(長九三間、横六八間)往古より御除地
右(同)権現往古より開帳不仕候

注、保呂輪権現 勧請(慶長七)とあるは天正十八年(1590)大掾氏の府中城は佐竹義宣によって滅び、佐竹義尚が府中城へ入城した。佐竹氏は織田、徳川氏の時の変化に乗れず,十二年ごの慶長七年(1602)秋田へ転封となった。佐竹氏は保呂輪(保呂羽、母衣羽)神社を崇敬していたので保呂輪権現を勧請したのであろう。しかしその年に秋田へ転封となった。

◎ 常府古跡案内しるべ 天明四年 山口仙栄著
 夫(それ)より権現堂へ行く、当社は日光権現のうつし也といふ、然らば祭神大巳貴命なるべし、今は九月十五日に祭る、十一月十五日に祭り在り、保呂輪権現祭神天八降魂命(アマヤクダリムスビノミコト)なるべし、耳に病ある人、耳土器を納めて願をかける。(注1)

注1, みみっちょ様とも伝えられている。小美玉市(玉里)にある耳守神社と同じ。
 常陸大掾・平貞盛の弟、繁盛の五男で香丸殿と呼ばれる五郎左衛門兼忠の娘が幼少期、耳を患い熊野神社を参拝したところ直ぐ治癒した。しばらくして、耳守神社が建立されたと伝えられる。保呂輪権現と耳守神社は別と考えられる。

現在この若宮保呂輪権現の地には「石岡の石仏」によると
宝篋印塔塔身、室町中期。五輪塔空風輪、室町中期。大日如来、江戸前期。五輪塔空風輪、室町末期。宝篋印塔基礎、室町後期。庚申塔、天正9(1581).五輪塔空風輪、室町後期。(以上宮部於呂輪権現)となっています。
                                     
天正九年の庚申講碑 foto1 Feb.2015
天正九年の庚申講碑 foto2 Feb.2015 
 天正九年の庚申講碑 foto3  Feb.2015
天正九年の庚申講碑 foto4  Feb.2015 
大日如来座像碑 foto Feb.2015
耳守神社?    Feb.2015 
 五輪塔などの石   Feb.2015 
 五輪塔などの石   Feb.2015 
 入り口付近   Feb.2015 
 高速道 石岡市若宮付近   Feb.2015 
昔の地図
天正九年の庚申講碑  foto Feb.2015
五輪塔などの石 平成12年2月(経年変化)
場所に関して
この場所は宅地、耕地に続いているのでプライバシー注意。↑


笠間市小原にある保呂輪神社(参考)追加

以前行ったことがある神社で今回気になったことがあったので2015/09/01また訪れてみました。
小原にある保呂輪神社にはむかし、千手院という院があったそうです。
鳥居の脇には大きな真言供養碑が並んであり、中の門前にも大きな五輪供養塔が建っていました。
明治の初年小原小学校の分教場かがあったそうです。
神社の周りは杉の木を主体とした杜になっています。杜の奥はかなり深く古墳を思わせるような自然林になっています。
遠い昔の話ですけど佐竹氏の崇敬社と神社に居合わせた人が話していました。実は、中門だったか本殿の屋根にある家紋を確認したかったのでした。
保呂輪神社 笠間市小原(前、友部)
 神社への上り道
小原小学校跡地の碑
山門前の五輪供養塔




 境内神社
 保呂輪神社本殿
山門屋根には扇子の家紋!!

旧友部町小原と那珂郡


茨城県町村沿革誌によりますと小原は往古常陸の國那珂郡に属していました。文禄年間茨城郡となり、明治11年に西茨城郡になりました。明治22年(1889)4月1日  町村制施行により、小原村と近隣の上市原村・中市原村・下市原村が合併し西茨城郡大原村が誕生しました。
和名類聚抄によりますと那珂郡にも茨城の郷がありました。
那珂郡には那珂川があり、江戸時代、川に沿った区画編成が行われました。。