2015年10月29日木曜日

古、国府跡(外城、石岡城) 石岡市 Old Hitachi Kokufu

 常陸国の古、国府跡(外城、石岡城)石岡市貝地一丁目11

 この地は志筑川・しづくがわ(江戸時代は表川・おもてがわ、恋瀬川)からほど近い常陸国茨城の高台にある稜威に大化の改新時代国衙(国府)が置かれたと伝わる。律令制国家が安定し、国府が各地に置かれ、守、介(常陸介)、掾(大掾)、目(小目)が執務を執り行った。
また、茨城郡衙が近くにあったと伝わっています。
台地は6号国道方面から貝地、田島、茨城を中心に東は中津川となっている。ここからの筑波山の姿が良い。
中津川には大きな古墳「舟塚山古墳」がある。
古国府は外城、石岡城とも呼ばれ、近くには茨城寺(茨城廃寺跡)があり、昭和54年から数次にわたって発掘調査が行われました。国分寺と同じような、各々文様の異なる軒丸瓦や平瓦、茨木寺の文字の入ったかわらけなどが発見されています。
この古国府、外城跡には現在札掛神社と岡田稲荷がまつられています。
建保二年(1214)常陸大掾資幹(すけもと)の時代になって居城となり、その後も城が整備され、この頃から石岡城と云われるようになったようです。後、高幹の居城として整備された。高幹の子詮国 の時代、国府は府中城の地に移されました。外城は札掛氏などによって守り続けられ、外城と呼ばれるようになった。堀跡も確認されています。
古城台地の下には小目井があり、府中六井のひとつであり、神世の時代より祭祀にはお清めに神聖な井戸水が必要であった。常陸風土記に日本武尊が新治を通るとき井を掘らしめるに豊富で透き通った水をめで、常陸の枕詞、衣袖漬(ころもて)常陸の国と呼ばれた。(御衣を漬すの意)
 
  江戸時代の幾つかの地誌によると表川は現在の6号国道恋瀬橋付近まで霞ヶ浦高浜入りの続きで幅が広く、中心部は深かったようです。洪水に見舞われるときもあり、改修工事も地区による人数割りもありたびたび行われました。
地誌によると江戸前期の頃までは市川、志筑とも府中であったようです。
なお、この周辺には数多くの秘められた謎が隠されていると思います。

石岡城「外城)案内板 
 岡田稲荷神社 2015/10/28
  岡田稲荷神社
  岡田稲荷神社   2015/10/28
 明治時代の碑  2015/10/28
石岡城から筑波山  2015/10/28
 札掛神社うらの祠   2015/10/28
札掛神社  2015/10/28
国道近くの案内板   2015/10/28

下の画像は石岡市まちかど情報センター主催ルネッ散歩で訪れた画像 
主に石岡市周辺の歴史・景観を訪れる。
長谷川氏、白井氏の説明が分かりやすく人気を呼んでいる。
やはり、歴史の街の案内人
2012/01/29石岡市まちかど情報センター
ルネッ散歩で訪れた石岡城跡 画像 #1
 2012/01/29石岡市まちかど情報センター
ルネッ散歩で訪れた画像 #2
2012/01/29石岡市まちかど情報センター
ルネッ散歩で訪れた石岡城跡 画像 #3
2012/01/29石岡市まちかど情報センター
ルネッ散歩で訪れた石岡城跡 画像 #4
2012/01/29石岡市まちかど情報センター
ルネッ散歩で訪れた石岡城跡 画像 #5